ハツリストという蛮族がいる

「ちょうな」で木をハツる、木を耕す日々

八ツ橋 = ハツリ橋 といふ説

我輩は踏み台を作るのである。アイデアはまだ無い。しかし解消されるべき段差は依然としてあるのである。

こういう時は、無い頭を振り絞るより、どこかからヒントをいただく(=パクる)のが一番である。

パラパラとテキトーに本をめくると、

f:id:hatsurist:20170807000717j:image尾形乾山 「八橋図」

おぉ、これは、こいつをいただく(=パクる)のだっ。

踏み台だと、幅が35〜40センチ位が踏みやすくていいんだけど、なかなかそういう大きな板は無いから、20センチ位の幅の板を二枚並べればいいんだっ。板の端は長さを揃えないのが、いとおかし。と方針が決まったところで、

f:id:hatsurist:20170807201006j:image材料出して(松の板)

先に、裏の桟の加工をしておいて〜

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ハツって〜

f:id:hatsurist:20170807202225j:imagef:id:hatsurist:20170807202251j:image

焼いて〜🔥

f:id:hatsurist:20170807202647j:image(写真には炎🔥が写らないみたいですが、バーナーから火が出てます)

焼き上がり〜

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で組み立て終了

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と、ここまできて、ふと思うのですが、上の乾山の絵でも、木の部分がとても黒く描かれているな〜、と。ひょっとしたら昔も、こういう雨晒しになる木は一度焼くことで表面を炭化させて耐久性を高めていたのかもしれない。

お兄さんの光琳の八橋図も

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橋は割と黒い。自然に雨晒しでここまで黒くなる頃には木は腐ってしまいそうだ。やはり焼いていたんじゃなかろうか。

そしてここで、もう一つの疑問が〜

昔の橋の板は平らだったんだろうか?と。

八橋図は、伊勢物語を下敷きにしているから、その時代(平安時代)は鋸による製材技術はそれほど無いから、クサビで打ち割った板を、チョウナで整えていた時代。

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と、こんな具合でハツられた板は、結構デコボコだったはず。この後ヤリカンナで削れば平面は出るが、そうしてしまうと手間がかかる上に、あのような架け橋に使うとツルツル滑って足元が悪い。しょっちゅう人が川に落ちてしまう。当時はおそらく、あえてハツリっぱなしで橋にしたのではないだろうか。

つまり、平安時代の橋は、この様ではなかったのではないか、と。

f:id:hatsurist:20170807214145j:image国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱」尾形光琳

ではなぜ光琳・乾山が、このように描いたかと言えば、この兄弟が活躍した江戸時代には既に大きな鋸(大鋸 おが)による製材が一般的になっていて

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板、といえば平らでツルツルしたものだという認識が当たり前になっていたからだと思われる。誰もみな時代の子なのである。

そういう目で、先ほどの踏み台を持って来て、架け橋風に丸太を置いてみると〜

f:id:hatsurist:20170807215236j:imageうん、きっとそうだ。

こういう架け橋があったとしても、こんな仮設のものは残るわけもないので、誰にも証明出来ない代わりに、間違っていることも証明出来ない。仮設の仮説である。誰が何を言おうと勝手なのである。その昔、三河国に渡してあった(かもしれない)八ツ橋は、このようなハツリ橋であったに違いない。そうに決まった。

 

八ツ橋  =  ハツリ橋    

 

と、いう妄想もそこそこに、奇遇にも旧・三河国領内である名古屋市守山区に無事

納められのであった。

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